短編小説『風が吹けば』3(全3回)
橋立玉江(はしだて たまえ)・女・二十八歳・心理カウンセラー
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きょうちゃん。鏡子という名前だったので、わたしはそう呼んでいた。向こうはわたしを、たまちゃんと呼んだ。大学の同期で、心理学部でほぼ丸々四年、共に過ごした。すごく仲が良かったのかは分からないが、つかず離れず、話しやすい友人だった。大学を卒業してわたしが妊娠して以降、一度も顔を合わせていない。たしか、大手化粧品会社、ライチーラボラトリーに勤めているはずだ。「真っ白ぷるるん肌へ、ライチーラボラトリー」の、ライチーラボラトリーだ。彼女の就職が決まった日、お祝いでバイキングを食べに行った。果物のコーナーにライチが置いてあったので、験を担いでか知らないが、二人で山ほど食べた。間違いない。きょうちゃんだ。
「どうしたの?」
息子が後ろからわたしの顔を覗いた。息子の顔を視界の隅でぼんやりと捉えたその時、わたしは、切ない気持ちに襲われた。急に、襲われた。パンパンになっていたボールの空気がゆっくりと抜かれていくような、小さく縮んでいくような、そんな気持ち。わたしは今何をやっているのだろう。端から見れば、きょうちゃんから見れば、怖い顔で自転車を漕ぎながら道で息子を怒鳴りつける、ヒステリックなママだ。きょうちゃんの姿はもうない。けれど、わたしは自転車を降りて、押して歩いた。こんな形では再会したくなかった。
「おしていくの?」
「うん。ちょっと、お母さん疲れちゃった」
ため息混じりに、気まずい苦笑いを浮かべながら答えた。
「じゃあぼくもあるく」
息子はぴょこんと荷台から地面に着地して、わたしの左側にくっついて歩き出した。返す言葉が上手く見つからないまま、息子がてこてこと歩くのを眺めた。眺めていると、息子がこちらを向いた。わたしは少しうろたえてしまった。息子は息子で、目が合ってちょっとびっくりしたようで、「ん?」という表情でこちらを見ている。その瞳は、くりくりしていた。要らない思惑や嘘で濁ってはいなかった。息子に、わたしの瞳はどう映っているのだろう。
「アイスたべたいなあー」
息子が視線を前に戻して、言った。人にどう思われるとか、厄介かもしれないとか、そんなしがらみは抱えていないのだ。彼は、アイスが食べたいから、アイスが食べたいと言っているのだ。わたしはここ最近で、思ったことをそのまま人に伝えたことはあっただろうか。「思ったことを素直に伝えればいい」そんなようなことを、わたしが出した本にも書いた気がする。学生や社会人に向けて書いたその本の内容を、五歳の息子はてこてこ歩きながら実践している。苦笑いは、微笑みに変わった。きょうちゃんが、たまちゃん最近頑張っていますか、と尋ねてくれたのかもしれない。大きくフッと息を吐き出す。
「じゃあ、くもんの宿題全部やったら、アイスあげる」
「えーでも、くもんのしゅくだいむずかしいもん」
「じゃあお母さん帰ったら、一緒にやってあげる」
「ほんと?」
息子は目を丸くしている。それもそうだ。通わせて一ヶ月ほど、宿題を一緒にやったことがない。どころか、先生に全て任せきりで、ほとんど何も把握していない。やりたくないのにやっていてもだめ、という息子の言葉がズシッと刺さる。
「勉強は、出来ないことが出来るようになったら楽しいから」
「ふーん」
ピンときていないようだ。というか、もう興味が他のことに移っているのかもしれない。何だよ、と思ったが、まあそういうものか、とも思った。
「よし、じゃあもう一回後ろ乗っていいよ。お母さん漕ぐから」
「え、いいの?」
「うん。歩くのちょっと疲れたでしょ」
本当は、このあとの講演会のことを思い出して、間に合うかやや心配になったからなのだが。
「やったあ!」
息子は、荷台に飛び乗った。
「もう!急に乗ったら危ないから!」
彼女は、講演会が終わったあとでまだ開いていたら、サーティワンでも買って帰ろうと思った。講演が上手くいったら、自分にもご褒美に。
宮島剣(みやじま けん)・男・二十歳・大学生
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僕は最近、くもんでアルバイトをしている。生徒は主に幼稚園生や小学生だ。彼らぐらいの年代の子供達には、自分が何をしたいのか考えさせるのが効果的だ。だから僕は「やりたくないなら少し休憩してもいいんだよ」と言うこともある。でも、大抵の子は、家にご飯が待っている、とか、このあと誰かと遊ぶ、とか、そういう先々の何かがある。だから、結局はそのために今はこのプリントを終わらせなければいけないんだ、となる。そこへ上手く誘導出来れば、こちらの勝利だ。ただ、中には本当に嫌々来ている子もいるみたいだ。この前は、あまりにやる気がなさそうに見えた子に「やりたくないのにやっててもだめなんだよ」と言ってしまった。まあ、その子は、言われて悔しかったのか「別にやるし」と言ってちょっと頑張りだしたけれど。この、橋立さんという人が書いた本にも、似たような人をやる気にさせる方法が書いてあって、何だか少し誇らしげな気持ちになった。次の角を右に曲がったら家に着く。一旦、本を読むのは終わりにしよう、そう思った時、
「つべこべ言うな!」
と少し遠くから女の人の怒鳴り声が聞こえた。身体が反応して、立ち止まってしまう。
「ああーもう!何で母さんがアンタにこんなに振り回されなきゃいけないの!?」
続けて聞こえてきた。声は少し近づいている。怒られているのを見たい。やはりまた、そう思った。昔から、人が怒られているところとか喧嘩しているところを見たくなるのはどうしてだろう。自分は、そこまで感情を爆発させることはない。だから、もの珍しさというか、怖いもの見たさで、いつもそういう場面に出くわしたら立ち止まってしまう。特に、公共の場で目撃した場合は、よく公共の場で人目もはばからずそんなこと出来るなあ、と若干の冷笑を伴って見てしまう。まあ、人間に興味がある僕にとって、なかなか好奇心をくすぐられるサンプルというわけだ。しかし、今は、立ち止まったはいいものの、すぐ後ろに人の気配がある。不審な動きだと思われたら困る。咄嗟に本をわきに挟んで、電話をするフリをした。
「もしもし。あ、剣です。今終わったので、うん。今から帰る。(少し間) うん、俺も家で食べる。(少し間) うん。分かった。はーい」
今から帰る、って。もう家はすぐそこだ。自分で苦笑いをする。途中で女の人が通り過ぎた。上手くやり過ごせたと思う。こういう、意味もなく体裁を取り繕うようなことをよくしてしまう僕だ。しかし、そういえば、肝心の怒鳴り声が消えてしまった。声は近づいていたみたいなのだが、どこかで曲がってしまったか。怒りが収まったのかもしれない。そうなると、途端に興味は薄れる。家までのあとわずかな道を歩き出す。歩き出して、角を曲がる時、気づいた。良い香りがする。さっきまでは意識が別の方に向いていたから気づかなかった、嗅覚に関する情報が、ゆったりとした風に乗って僕の鼻から脳に届いた。数秒前に横を通り過ぎて行った女の人の残り香だと気づく。可愛らしさと爛漫さを同時に持っているようなにおい。ライチのようなにおいだ。本のにおいを嗅いだ時に、決して探し求めていたわけではないけれど「この本を探していたんだ!」という気持ちになることがごく稀にある。それと似たような気持ちに、なぜか今、なった。人間の気持ちは実にころころと転がっていく。今は、通り過ぎた時に一瞬だけ見たあの女の人の後ろ姿で頭がいっぱいになってしまっている。それでも、体裁を考えてしまうから、追いかけることなどは出来なかった。実験と考察が上手くいかない人間関係は、苦手だ。でも、今までに経験した、そこそこ多くの人間関係のデータの中には類似のものがない、そんな例に、今、遭遇している。あの怒鳴り声に立ち止まらなければこんな風になってなかっただろうと思うと、不思議な感覚になる。家の前まで着いた。若干の高揚を感じつつも、平静を装う。必死になって、一縷の希望の糸をたぐり寄せようとするのは格好悪い、そう思ってしまう。今日も、明日も、いつも通り過ごそうと努める。いつも通り郵便受けを確認する。夕刊と、ヨドバシカメラからのチラシが入っていた。スピーカーが大特価だ。明日買いに行こうかな。家のドアを開ける。
「ただいまー」
リビングの方から、ハヤシライスのにおいがした。
彼は、夕食のあとで、心理学の本を最後まで読んだ。あの人にはまた会えるような気がする、そんな根拠のない予感を抱きながら。
おしまい。
写真は「やっぱちょっとだけ面白いよなあ。」(新聞シリーズ3(こちらも全3回))
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