短編小説『風が吹けば』2(全3回)

橋立玉江(はしだて たまえ)・女・二十八歳・心理カウンセラー

 向かい風に髪が乱れる。午後七時頃、わたしは自転車に乗っていた。ペダルが重たい。日中働いたあと息子を保育園に迎えに行ったその帰り道。後ろの座席には我が子が落ち着きなく座っている。

「揺れるな!」

イライラしながら注意する。お気に入りの女の先生とまだもう少し遊んでいたかったらしい。無理やり引き剥がして自転車の後ろに乗せたは良いものの、ずっとグズグズ言っている。今日はこのあと、子どもを家に連れて帰ったらすぐにその足で、世田谷区の公会堂での小さな講演会に出なくてはいけない。まだ五歳の息子に一人で夕飯を食べさせるのは酷な気もするが、そうするより仕方ない。夫は海外出張だ。今頃はシンガポールだかどこだかにいるはずだ。お偉いさんとゴルフでもしているか。現地の若い女と飲み明かしているか。嫌な想像しか出来ない自分がまた嫌になる。息子が背中を叩いた。

「危ないだろ!」

言葉が乱暴になる。

「おかあさん、おなかすいた」

「帰ったらあるから!」

「アイスたべたい」

「つべこべ言うな!」

今のわたしは、息子に何を言われても腹が立つモードに突入している。これで職業が心理カウンセラーなんて、聞いて呆れる。自分のことなんて、なかなか自分で冷静になって見られない。冷静になって見ようとすると、わたしの場合、それは冷酷になって見ることになってしまう。そもそも、まだまだ働いていたいこの二十八という時期に五歳の息子がいるのが足かせなのだ。夫は子どもが欲しいと言った。男だからそんなことが言えるのだ。日々の子育てには初めから不参加のつもりだったのだ。休日は俺の出番だと言うように子どもと遊ぶ姿は、気持ちの良いものではなかった。そんな気持ちになってしまうわたしも、まだ母になるには早かったのだと思う。最近、息子をくもんに通わせることにした。「自分で」とか「自分のペースで」という言葉に惹かれてしまった。今後、これで息子がどんどん勉強を進めていってくれたら、少しでもわたしの負担が軽くなる。淡く、自分本位な希望を、月謝という投資に込めて。それにしても、「忙殺」という言葉があまりにもぴったりきてしまう。仕事をしている時も、夫にも、子どもにも、とにかく「忙しさ」にわたしは身を削られている。抜け出せない日々。

「おかあさん、ぼく、くもんやめたい」

驚いた。わたしの心の内を見透かされたようだった。

「何でそんなこと言うの」

「やりたくないのにやっててもだめなんだよ」

わたしのイライラの火に、勢いよく油を注がれた。もう、理論的な思考の塔は崩れた。

「ああーもう!何で母さんがアンタにこんなに振り回されなきゃいけないの!?」

誰に怒っているのか、何を分かってもらいたいのか、自分でも分からない。ただ叫ぶことで嫌な気分を吐き捨てたいだけかもしれない。でも、わたしは、賢いような言葉を平気で真顔で言う小さい子は大嫌いだ。重たいペダルを漕ぐ足だけは止めないでいた。向こうの方で、歩いていた女の人が、多分わたしの罵声に驚いて立ち止まった。一瞬だけ目が合った気がしたその顔は、わたしが知っている顔だった。目線を戻して歩き去っていく姿に向かってつぶやく。

「きょうちゃん・・・?」

思わずペダルから足を離して、自転車を止めた。






宮島剣(みやじま けん)・男・二十歳・大学生

 涼しい風が通り抜ける。午後七時頃、僕は本を読みながら路地を歩いていた。図書館が好きで、月に一回以上必ず本を借りる。借りる時に頼りにするのは、においだ。僕は生まれつき鼻が利くらしい。小学生の頃、昼前になると今日の給食のメニューを当てたりして、一目置かれた時もあった。本にも、僕の好きなにおいがある。インクや紙、そして多分これまでに読んできた人たちのにおいが混じって、機械っぽさと香ばしさを同時に持っているような本。本を初めから終わりまでパラパラとやって、その時起こるささやかな風のにおいを嗅いで、気に入ったにおいの本を三、四冊ぐらい借りる。ジャンルはいつも適当になる。普段の僕だったら目もくれないような本に出会えるのが面白い。まあ、ハズレの本も多いのだが。大学の勉強はあまり面白くない。自分でどれだけ出来るかだから、面白くないというのは言い訳だ、という人もいるが、面白くないものは面白くないのだ。努力の量がある一定の値を超えたら面白くなる、などということはないはずだ。小さい頃から人間に興味があった。論理的に、自分がこうすれば相手はこうなる、というのを考えて人付き合いをしてきた。けれど、というか、だから、というか、人と深く付き合うことはなかった。今でも、ない。とりあえず自分の居場所を確保して、周りの人と生活の時間の一部を共にするのに、その必要はなかった。でも、人間への興味が、肝心の僕の人間関係を、実験と考察みたいにしてしまっているのは、自分でも少しやるせなさを感じる。だからこそ、大学では人間に関して色々知りたいと思った。どうせそういう生き方をしてしまう僕なのだから、とことん調べてみようと思った。けれど、大学で学ぼうとした学問はどれも、導入部を抜けた先に広がっている道が平坦で、漠然としていて、小難しくて、つまらなかった。だからよりいっそう、図書館が好きな今日この頃だ。今歩きながら読んでいるこの本は、心理学関係の本だ。少し前から読み始めた。平たい文章で書いてあって、読みやすいことは読みやすい。内容も平たいのが少し残念だが。何となくもう一度表紙を見返してみる。

『「印象」ってなんだろう?  著・橋立玉江』




つづく。

写真は「ジ、だな。」(新聞シリーズ2(こちらも全3回))

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