短編小説『風が吹けば』1(全3回)

松島鏡子(まつしま きょうこ)・女・二十八歳・OL

 撫でるような風が流れている。午後七時頃、わたしは路地を歩いていた。大きな通りから二本ほど入った道だが、うっすらと車の音は聞こえる。この辺には、狭いところに大勢の人がぎゅっと密集して存在しているのだなあ、と勝手に納得する。もうすぐ秋だ。だから午後七時ともなると、さすがに薄暗い。夏の間はうだる暑さで鬱陶しいと思っていたのに、いざ秋の訪れを感じると名残惜しくなるのだから、人間勝手なものだ。十メートルほど前を若い男の人が歩いている。大学生ぐらいだろうか。本を読みながら歩いているらしい。この薄暗さで文字を読んでいては目が悪くなるぞ、と心の中で注意した。右の路肩の植え込み一帯で虫が鳴いている。音だけ聞いている分には心地良い。虫は大嫌いなのだけれど。交差点のところで、今度は左の方の道から、

「つべこべ言うな!」

と女の人の声が聞こえた。驚いて少し立ち止まって目を凝らすと、向こうの方から、後ろに小さな子どもを乗せたママチャリがこちらへ向かってくる。向かってくるといっても、まだ少し遠くだ。それなのに声が耳に飛び込んできたのだから、すごい。すごい剣幕だ。

「ああーもう!何で母さんがアンタにこんなに振り回されなきゃいけないの!?」

続けて聞こえてきた。うわあ。後ろに乗っている子どもに怒っているらしい。ヒステリックといっても良いその怒鳴り声に、少し鳥肌が立った。母親は子どもに振り回されるものだよ、とまた心の中でつぶやいた。万が一にも目をつけられたりでもしたらいけないので、歩き出す。歩きながら、ちょっと誰かに似ている声だなと思った。まあ、怒鳴れば大体みんなこんな声か。まだわたしは母親ではない。二十八だ。独身だ。恋人もいない。はあ。怒鳴り声が聞こえなくなったところをみると、ママチャリは、この道にぶつかる前に曲がっていったらしい。良かった。怒り終わったのだろうか。すぐに収まるような怒り方ではなかった気がする。二本向こうの道の車の音もうっすら聞こえてくるぐらいなのだから、あの怒鳴り声なら、一本向こうの道ぐらいからなら聞こえてきそうなものだけれど。それにしても誰かの声に似ていた。誰だろう。うーん。分からなさそうなので、一瞬で考えるのをやめた。わたしの良いところでもあり、悪いところでもある。意識を前の方に戻すと、さっきの若い男の人が立ち止まっている。電話をしているようだ。意識を前の方に戻すまで立ち止まっていることに気づかなかった。人間の感覚というものは何て鈍いのだ。こんなことでは何度危険にさらされるか分からない。気を引き締める。若干警戒しながら男の人の横を通り過ぎる。今なら身体が構えているから大丈夫。中高と陸上部の部長だった。逃げ足と大声には自信がある。先ほど読んでいたと思われる本はわきに挟まれていた。通り過ぎる前後で、話し声が聞こえた。

「うん。今から帰る。(少し間) うん、俺も家で食べる。(少し間) うん。‥‥」

電話はすぐに終わったみたいだ。再び歩き出す足音を背中で感じる。また少しの緊張が走る。わたしは気丈に歩を進める。わずかに振り返って背後を確認してみた。すると、男の人は右に曲がっていくところだった。え? 首をひねる。そちらは行き止まりなのだ。なぜだ? なぜ曲がったんだ? 多分あの道の奥には一軒家がいくつかあるだけだ。寄り道? それとも抜け道? まさか空き巣? いやいや。疑惑を払拭する。人の家の敷地を抜けていくような年頃には思えないし、「今から帰る」と言って寄り道や空き巣をするような風にも見えなかった。では何だろう。そうか。あの道に、彼の家があるとしか思えない。でも、そんなに家の間近で「今から帰る」と電話するだろうか。多分、夕食の準備中だった母親か誰かに電話していたのだろう。「俺も」家で食べる、と言っていた。うーん。どういうことだろう。考えても分からない。彼がサプライズ好きで「もう帰ってきたの!?」という家族の反応を面白がりたいのだ、という、自分でも適当すぎるだろ、とツッコミを入れたくなるような結論を一応出した。わたしの良いところでもあり、悪いところでもある。というか、ただの通りがかりの男の人について、何をこんなにあれこれ考えているのだ。自分で苦笑し、意識をまた前の方に戻す。けれど、何かをうんうん唸りながら考えるというのは良いことらしい。全然関係ないことを思い出したのだ。さっきの声。子どもを怒鳴っていた声。賀来千香子だ。賀来千香子の声に似ていたのだ。我ながら関係なさすぎて情けなくもなる。なぜ急に思い出したのかはよく分からない。ついでに大学時代の友達に賀来千香子のモノマネが上手い子がいたのも思い出した。モノマネ、というか、地声がもう割と似ていたのだけれど。結構仲良くしていたような気がする。元気にしているだろうか。まあ、きっと、大学生繋がりということで賀来千香子が出てきたのだろう、とこじつける。誰が分かるんだそのモノマネ、といつもツッコまれていたなあ。わたしの母が賀来千香子を好きだったから、わたしだけいつも大笑いしていた。もしかすると、もしかしてもしかすると本物の賀来千香子だったかもしれない。賀来千香子って子どもいたっけ。あ。賀来賢人だ。いや、賀来賢人は甥っ子だ。それに賀来賢人はもう自転車の後ろのカゴに乗るような年齢じゃない。まあそもそも賀来千香子がこんなところを自転車で走っているわけないのだけれど。あれこれ思いを巡らせているうちに何だか面白くなって、一人でニヤニヤ笑いながら突き当たりを右に曲がる。iPodで『涙のキッス』でも聞こうと思ったが、数日前にイヤホンをなくしたんだった、と気づいて、またうっすら笑ってしまう。明日、駅前のヨドバシカメラで新しいのを買おう。仕方ないので、アカペラで口ずさむことにした。

「今すぐ逢って見つめる素振りをしてみーてもー・・・」

彼女は、歌っているうちに、いくつか引っかかった疑問のことなど忘れてしまっていた。彼女の良いところでもあり、悪いところでもある。




…つづく。

写真は「いや毎回そうやろ!」(新聞シリーズ1(こちらも全3回))

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