短編『駆け下りる人』

「階段やエスカレーターは、危ないですので駆け上がったり駆け下りたりしないで下さい」


人もまばらな駅の中で、アナウンスが流れる。


彼は改札階からホームへと続く長い階段を駆け下りていた。


電車は来ていない。


急いでいるわけでもない。


それでも、彼は、駆け下りたい衝動に駆られていた。


彼は、駆け下りながら考える。


この先、怪我や病気になって、もしくは老いが来て、階段を駆け下りることができなくなった時、ああ、あの時に駆け下りておけばよかったな、と思わないように、駆け下りているのかもしれない、と。


階段を駆け下りることにたまらなく高揚感を覚える今、駆け下りておかないといけないような気がしていた。


階段の中腹辺りを過ぎた時、彼の中で、駆け下りる幸福のピークがきた。


幸せだ。


そう感じた瞬間、彼の脳と身体はうまく連携しなくなっていた。


彼の足がもつれる。


次に出るはずの右足は後ろに取り残され、上半身が前に押し出される。


幸福の渦の中、彼の身体はゆっくりと水平になり、一瞬、宙を舞った。


彼がここまで駆け下りてきたスピードよりもさらに速く、一気にホームへと転がり落ちる。


彼は、ホームの地面に自分の身体をしたたか打ち付けた。


駆け寄る人はいなかった。


それでも、階下でうずくまった彼の顔は、笑っていた。


彼は、階段を駆け下りる幸福をこれ以上に感じることは、今までも、これからも、もうないだろう、そんな風にぼんやりと、しかし痛烈に、感じていた。


「階段やエスカレーターは、危ないですので駆け上がったり駆け下りたりしないで下さい」


アナウンスは、遠のく意識の中にいる彼にも流れ込んでいった。

写真は「花言葉は、「移り気」と「家族団欒」。人間らしいな。」

0コメント

  • 1000 / 1000