人生初の

道端に、財布が落ちていた。

革の、パンパンの財布だった。

夜だったので、人通りが少なく、でも数人は歩きながらその財布が目に入っていたはずなのだが、みんな通り過ぎていく。

僕は、歩く速度を落とした。

大通りの反対車線に、パトロール中らしきパトカーが止まっていた。

「パトロールカー」の名前にふさわしい働きをしている。

パトカーが止まっていることによって、僕の心の中に天使と悪魔が出てくる隙もなく、拾ってパトカーに乗っている警官に渡すという決断がなされた。

横断歩道を渡る。

途中、青信号が点滅し始めたが、知らない人の財布を持って走るというのは、何か聞かれた時に分が悪くなる可能性を僅かでも減らしたい僕がすべきことではないと思い、歩いて渡った。

信号無視と見なされなかっただろうかとパトカーの方に目を向けたが、警官は全く別の方向を見ていた。

道路脇の助手席の側に回って、アピールする。

警官は、運転席と助手席に、合計2人乗っていた。

いずれもおじさんであった。

助手席の警官が窓を開ける。

「どうされました?」

「今、反対側の道で、財布を拾ったので、お渡しします」

「今ちょっとお時間ありますか?」

えっ。

なんかしたか?

いやいや、もう悪の組織からはとうに足を洗って、今は何もやましいことはない。

いや、悪の組織になんか入ったことはないんだった。

危ない危ない。

つとめて冷静に答える。

「まあ、はい」

聞くと、落とし物を拾った時に書く書類があるらしく、それを今持っていないらしかった。

だから、車で3分ほどの交番まで来てほしい、とのことだった。


そんなわけで、人生で初めてパトカーに乗った。

通行人が少なかったので、見られてはいないはずだ。

なるべくササッと乗り込んだ。

座席は、緊張感のあるパリッとしたクッションだった。

ふかふかだったら、犯人が居眠りなどして顰蹙を買うだろうから、やはりパリッとしていた方がよいのかなと考えた。

「すいませんね、白黒なんかに乗せちゃって」

運転席の警官が言った。

「白黒」というのか。

パトカーの業界用語ということか。

「いえ、全然」

本当は「白黒」という言葉に戸惑っていたのだが(目を白黒させていたのだが)、表に出ないようにして、余裕ありげに答えた。

あっという間に駅前の交番に着いたのだが、駅前は人通りが多い。

パトカーを降りて交番に入る10秒ほどの時間が、とてつもなく長く感じられた。

全員が自分のことを見ているような気がした。

誤解しないでくれ、とありったけの念を周囲に飛ばしながら、交番に入る。

書類は、あっという間に書かれた。

お金のいくらかをもらう権利もあるらしかったが、この場を立ち去りたい気持ちがはるかにまさって、断った。

住所と電話番号も書かされた。

なにか本当に悪の組織にまつわる財布でないことを願う。

黒ずくめの男に跡をつけられたりしないといい。

交番を出ると、パトカーの運転をしていた警官が帽子に手をやって、お礼を言ったあとに、
「さっきのところまで送っていくね」と僕に告げた。

なに。

また乗るのか。

無下にできない、優しさの圧のようなものが、警官の顔から立ちのぼっている。

「ありがとうございます」

完全に自分の意志とは裏腹に、お礼の言葉を言ってしまった。

冤罪が生まれるのも無理はないような気がしてしまった。

それはまた別の話なのかもしれないが。

もう一度パトカーに乗り込む。

ここまでの様子をずっと見ていた人がいたら、交番で事情聴取されて、逮捕されて、警察署に連行されたと思われるかもしれない。

僕は無実です。

最初の横断歩道まで送ってもらい、パトカーを降りた。

「どうもありがとうございました!」

警官2人は、すがすがしい挨拶をした。

すがすがしさにも、若干の圧を感じてしまった僕は、やはり何かやましいことがあるのかもしれない。

「どうもー」

何事もなかったかのように、さらりと挨拶を返して、ゆっくりと歩き出す。

歌う必要のない鼻歌などを歌いながら、見上げる必要のない空などを見上げながら、ふらふらと歩いた。

あとは、知り合いが一瞬でも見ていなかったことを切に願うばかりだ。

どっと疲れがきた。

いいことをするのも楽ではない。

もしまた財布が落ちていたら、拾って届けるだろうか。

素通りするだろうか。

拾って自分のものにするだろうか。

人は皆、少し良い人で、少し悪い人なのだ。

きっと僕もまた、そうなのだ。

今日はたまたま、良い人だっただけだ。

道路脇の植え込みに、変わった色のバラが咲いていた。

この辺で擱筆。
写真は「結びでカッコつけたかったわけではなく、本当に咲いていた。」

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